白川温泉
(銀閣寺〜京大周辺)
昭和2年築
|
|
何回も書いていますが、私を銭湯巡りに引き込んだ一軒です。
昭和8年の地図を見ますと、現在の白川通りはまだ影も形もなく、周りは田畑ばかりで、この辺りの主要道は400mほど南を走る志賀越道です。そこから北白川小学校の西側の道が北に伸びており、この道を白川通りと呼んでいたようです。おそらく白川温泉へも現在と違い東側の道からアプローチするようになっていたと思われます。この建物が南を向いて建っているのは、多くの人が南の方から歩いてくるという理由があったのかもしれません。
|
弁天湯
(嵐電沿線・嵐山本線)
昭和3年築
|
|
道路から少し引いて建てられ、よく見ないと洋風と気づかないのが少々残念な建物です。
現在太子道が弁天湯の南側(裏)を通っていますが、昭和8年の地図を見ますと、現在旧二条通りと呼んでいる弁天湯の前の道が、太子道と呼ばれこの辺りの主要道になっています。
弁天湯のある場所は、安井の集落の東端で、東側には千本通り辺りまで広大な田園風景が広がっていたようです。
|
宝湯
(伏見稲荷〜藤森周辺)
昭和6年築
|
|
現在でも少々郊外の雰囲気が漂う宝湯周辺ですが、建築当時も周辺には民家はまばらだったようです。
但し現在の国立京都病院の敷地には、陸軍の京都衛戌(えいじゅ)病院が建っていましたし、明治末から深草には次々と陸軍施設が置かれました。もしかすると、そういう特殊な軍関係者の利用が見込めたのかもしれません。
他の洋風銭湯と比べ内装にも洋風意匠が多用されているのも特徴です。
|
菊湯
(伏見市街周辺)
昭和初期築
|
|
経営者が変わっており、建築年等は正確に分かりませんが、ご主人によれば昭和初期の建物とのこと。
装飾デザインを一切排しており、現在のコンクリート打ちっ放しを彷彿させますが、2階にベランダを設けているのが特徴です。
前の道は現在竹田街道の南行き道路になっていますが、北行き道路は当時の電車軌道で菊湯の前の道が本来の竹田街道でした。伏見市街の北端の方に立地しますが、ある程度民家、商店が建ち並んでいたと思われます。
|
新地湯
(伏見市街周辺)
昭和6年築
|
|
中書島は遊郭のあったところとしても知られていますが、大正4年の地図を見ますと、遊郭のあった柳町一帯はもっと北の方で、新地湯の辺りは田んぼが広がっています。
とはいえ、新地湯建設当時京阪電車の中書島駅は既にありますし、竹田街道を走っていた市電も中書島まで延伸されています。新地湯は駅前の一等地にありますし、文字通り新しく開発された一角に建つ、ハイカラ銭湯だったのでしょう。
|
<番外物件>
|
朝日湯
(伏見稲荷〜藤森周辺)
|
|
この建物は洋風建築の範疇に入れるか迷いました。というのも正面は軒を出した和風、側面は一部装飾をつけた洋風となっているのです。行かれた際によく観察してみてください。
|