第2回:洋風建築のお風呂屋さんへ行ってみよう

 

 

 一口に洋風建築のお風呂屋さんと言っても、古い物から新しいものまでいろいろありますが、ここでは戦前に建てられた洋風のお風呂屋さんを取り上げたいと思います。
 何をもって洋風とするかは、一口に「洋風」と言ってしまうと曖昧ですが、日本建築の伝統様式である軒を出していない、正面に立て板状の壁面を持っていることを条件にしておきます。
 現在営業されている京都市内のお風呂屋さんで、大がかりな改装をせず、外観が保たれている洋風建築は「白川温泉」「弁天湯」「宝湯」「菊湯」「新地湯」のわずかに5軒だけです。しかし、その希少性も、また実際に見たときのインパクトも、他の追随を許さない魅力を感じます。
 唐破風が残るお風呂屋さんに対し、現存している建物が極端に少ない洋風建築ですが、廃業されたところや、改装されたところを含めると、意外とその数は多かったようです。現在でも大宮五条にある「桜湯」は、時代を感じさせる洋風デザインが一部確認できますし、廃業された紫竹温泉(*1)や人見温泉(中京区聚楽廻)、萬寿湯(伏見区深草)などは洋風の建物でした。
 
 これらの洋風の銭湯の建てられた時期ですが、奇しくも唐破風が一般化した昭和初期と重なります。唐破風のところでは触れなかった「何故」一般化したかということですが、これについて京都府立大学教授の大場修先生が、京都新聞の連載で興味深いことを書いておられました。
 洋風町家についての連載記事だったのですが、洋風の銭湯は比較的郊外にあるという立地条件から建物の外観に「看板性」を持たせたのではないかというのが大場先生の考えです。
 この外観に看板性を持たせるという動きは、関東大震災の復興期に東京を中心に生まれた「看板建築」(*2)と呼ばれる一群の木造の店舗併用住宅にも見られます。簡単に説明すると、軒のない平面的な正面外壁に、銅板を張ったり、様々な意匠を取り入れ装飾された建物です。店舗併用住宅という性格から、店舗を際だたせるためにいろいろな意匠が工夫されています。
 この看板建築の特徴のひとつに「木造である」ことが挙げられますが、京都市内に残る5軒の洋風の銭湯のうち「白川温泉」「弁天湯」「宝湯」の3軒も木造で、モルタル仕上げになっています。要するに外観だけで、骨組みは従来の建物と同じ構造なのです。
 郊外の立地条件という観点からの看板性については、当てはまらない物件もあるように感じますが、昭和初期は、商店や銭湯といった身近な建物の外観に、洋風を取り入れたり、唐破風を付けるなど、看板性を持たせるという動きが一気に広まった時代と言うことは、間違いないでしょう。
 また、この昭和初期という時代を考えてみると、幕末以降日本に入ってきた洋風建築が、約60年を経て庶民生活のレベルにまで到達した時代と言ってもいいでしょう。明治時代には、まず役所や学校、駅、銀行などといった公共性の高い町のランドマークとなるような建物が、洋風建築を取り入れていきましたが、個人の住宅に関してはまだまだ従来の町家のままです。
 明治の末になり、ようやく日本最初の住宅供給会社「あめりか屋」が誕生し、米国式の住宅設計施工を行うなど、都市住宅の中に洋間を取り入れる動きが見られるようになりました。町の中に建つ役所や銀行の本格的な洋風建築を見た庶民は、手が届かないまでも強い憧れを持っていたのは事実でしょう。町なかの個人の建築物として、診療所などにいち早く洋風建築が取り入れられたことを考え合わせると、洋風建築=ステータス・権威の象徴とも考えられます。洋風に見せるというのは、看板性と同時にステータスとしての洋風建築に対する強い憧れの現れでもないでしょうか。
 
 京都市内に僅かに残る洋風建築のお風呂屋さん。僅かに残ったことで、建築から70年以上を経た現在も看板性を持ち続けているというのは、皮肉な運命のようにも思いますが、変わらないモノに対する評価が高まる中で、再評価されれば本望のような気もします。
 是非、洋風建築のお風呂屋さんへ行かれたら、建てられた時代を想いながら建物を見て下さい。できれば当時の周りの町の様子なども想像して眺めてみましょう。お湯に浸かったときの満足感が、ちょっとだけ増すと思います。

白川温泉
(銀閣寺〜京大周辺)

昭和2年築

 何回も書いていますが、私を銭湯巡りに引き込んだ一軒です。
 昭和8年の地図を見ますと、現在の白川通りはまだ影も形もなく、周りは田畑ばかりで、この辺りの主要道は400mほど南を走る志賀越道です。そこから北白川小学校の西側の道が北に伸びており、この道を白川通りと呼んでいたようです。おそらく白川温泉へも現在と違い東側の道からアプローチするようになっていたと思われます。この建物が南を向いて建っているのは、多くの人が南の方から歩いてくるという理由があったのかもしれません。

弁天湯
(嵐電沿線・嵐山本線)

昭和3年築

 道路から少し引いて建てられ、よく見ないと洋風と気づかないのが少々残念な建物です。
 現在太子道が弁天湯の南側(裏)を通っていますが、昭和8年の地図を見ますと、現在旧二条通りと呼んでいる弁天湯の前の道が、太子道と呼ばれこの辺りの主要道になっています。
 弁天湯のある場所は、安井の集落の東端で、東側には千本通り辺りまで広大な田園風景が広がっていたようです。

宝湯
(伏見稲荷〜藤森周辺)

昭和6年築

 現在でも少々郊外の雰囲気が漂う宝湯周辺ですが、建築当時も周辺には民家はまばらだったようです。
 但し現在の国立京都病院の敷地には、陸軍の京都衛戌(えいじゅ)病院が建っていましたし、明治末から深草には次々と陸軍施設が置かれました。もしかすると、そういう特殊な軍関係者の利用が見込めたのかもしれません。
 他の洋風銭湯と比べ内装にも洋風意匠が多用されているのも特徴です。

菊湯
(伏見市街周辺)

昭和初期築

 経営者が変わっており、建築年等は正確に分かりませんが、ご主人によれば昭和初期の建物とのこと。
 装飾デザインを一切排しており、現在のコンクリート打ちっ放しを彷彿させますが、2階にベランダを設けているのが特徴です。
 前の道は現在竹田街道の南行き道路になっていますが、北行き道路は当時の電車軌道で菊湯の前の道が本来の竹田街道でした。伏見市街の北端の方に立地しますが、ある程度民家、商店が建ち並んでいたと思われます。

新地湯
(伏見市街周辺)

昭和6年築

 中書島は遊郭のあったところとしても知られていますが、大正4年の地図を見ますと、遊郭のあった柳町一帯はもっと北の方で、新地湯の辺りは田んぼが広がっています。
 とはいえ、新地湯建設当時京阪電車の中書島駅は既にありますし、竹田街道を走っていた市電も中書島まで延伸されています。新地湯は駅前の一等地にありますし、文字通り新しく開発された一角に建つ、ハイカラ銭湯だったのでしょう。

<番外物件>

朝日湯
(伏見稲荷〜藤森周辺)

 この建物は洋風建築の範疇に入れるか迷いました。というのも正面は軒を出した和風、側面は一部装飾をつけた洋風となっているのです。行かれた際によく観察してみてください。

注:他にも洋風建築のお風呂屋さんはあったのですが、現在も営業されており往時の様子を確認出来るところをピックアップしました。伏見の鶴の湯さんも平成9年まで宝湯に似た建物だったそうで、鶴の湯さんのホームページ中「鶴の湯ヒストリー」で触れておられます。

*1

紫竹温泉の建物は廃業後もそのまま残っています。写真を大徳寺〜金閣寺周辺「きたやま温泉」の周辺案内に掲載しています。
また「人見温泉」については
資料室・文献資料で紹介している「京都おもしろウォッチング」に、「萬寿湯」については「銭湯へ行こう」に写真が収録されています。

*2

看板建築という言葉は、藤森照信・東大教授が大学院生の時「日本建築学会大会」で初めて使用されました。現在では広く認知されているばかりでなく、東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」に移築された数棟が、歴史的建造物として保存されています。

   

<参考資料>

書名等

著者

出版社

発行年

廿世紀銭湯写真集

町田忍 監修 
大沼ショージ撮影

DANぼ

2002

銭湯へ行こう

町田忍 編・著

TOTO出版

1992

日本の近代建築(上・下)

藤森照信

岩波新書

1993

新版 看板建築

藤森照信

三省堂

1999

建築MAP京都

ギャラリー・間

TOTO出版

1998

近代京都の名建築

京都市文化観光資源保護財団

同朋舎出版

1994

日本近代都市変遷地図集成

柏書房

1987

慶長昭和京都地図集成

柏書房

1994

京都新聞

2003.12.11朝刊「みやこの近代57」京都の洋風町家2
(大場修先生の連載は「京都の洋風町家1〜4」の4回シリーズ)

(2004.2.13)

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